靴底に 戊辰の響き 隊士塚――会津若松〜裏磐梯を巡る半日旅
神秘の水をたたえる五色沼 会津藩の歴史を刻む鶴ケ城


●山をも吹き飛ばす地球の力

 福島県を訪れたのは2001年9月28日・29日、仕事関係の会議が会津若松でおこなわれたことが機会となった。
 二日目の日程が昼に終わり、現地の方がマイクロバスを手配していただき、近畿からの参加者10数名ととともに駆け足のように裏磐梯を巡った。
 道路事情は良く、しかも平日だったので混雑もなく快適だった。会津若松側からは終始どっしりとした存在感の磐梯山が見えていて、車はその山裾にあたる峠を越えて山の西北に廻る。この地を裏磐梯と称する。
 いわゆる市街地は全くなく、火山の噴火による荒野と、そこに根付いた植生が繁茂する原生林に近いブッシュが広がる。こちら側から磐梯山を見ると、爆発によって山頂が吹き飛んだ後がくっきりと見える。けして埋まることのない巨大な傷跡を残している。
 1888(明治21)年7月に約20回にわたる爆発が続き、最後の爆発で山頂が吹き飛んだという。その体積は約12億立方メートル、途方もない自然のスケールという他ない。
 五色沼は、磐梯山の火山活動によってできた奇跡の湖沼群である。車は五色沼の中心地、毘沙門沼の湖畔の駐車場に到着する。周辺は観光地らしい賑わいを見せるが、湖岸を少し歩くと妖しいコバルトブルーを湛える水がひっそりと静まりかえっている。
 本来は五色沼全体をめぐる遊歩道を踏破したいところだが、停車時間に余裕がなく、隣の赤沼まで急いで往復することにした。赤沼と言いながら、水質は毘沙門沼同様にブルーで、湿地に生える苔類が赤茶色を見せている。
毘沙門沼の湖水 毘沙門沼から望む磐梯山 赤沼:水は青い



●会津若松藩、抵抗の牙城・鶴ケ城

 会津若松市の街並みは、イラストマップもあって散策するのに最適なのだが、残念ながら時間がなくほとんど歩けなかった。同行の小川氏の要望があって、鶴ケ城に立寄った。小川氏は新聞社出身で現在は現役を引退されているが、歴史に関心の高い人で、特に戊辰戦争や白虎隊に思いをもっておられる。
 鶴ケ城は市の中心部にある。間近から見ると、抵抗の歴史や悲劇的な運命にもかかわらず、天守閣は非常に立派な存在感を誇り、日本の名城の一つに数えられている。
 場内には茶室鱗閣(りんかく)がある。千利休が秀吉の怒りに触れて追放される折、会津入りしていた蒲生氏郷が千家茶道が途絶えるの惜しみ、利休の息子・少庵を会津にかくまったという。この茶室は千少庵によって建てられ、戊辰戦争後取り壊されるの惜しんだ森川善兵衛が自宅に移築、平成2年に会津若松市が市制90年を記念してこの場所に戻したものと説明されていた。
 歴史に翻弄された茶室の入口には、そっと茶花が活けられていた。
 
鶴ケ城天守閣 茶花 鶴ケ城内の茶室

       

●悲劇の白虎隊 飯盛山に眠る

 同行の小川氏の強い要望により鶴ケ城から飯盛山に向かう。白虎隊の少年たちが十代の若さで、集団自決した悲劇の地である。小川氏は、いずれの日にかこの地を訪れたいと願っていたのだそうだ。
 隊士墓は山腹にあり、石段で登っていく構造になっているが、側道にスロープコンベアがあって年配者に配慮されている。
 途中にさざえ堂がある。登りと下りがすれ違わない構造のユニークな建造物である。二重螺旋を上り下りすると西国三十三面観音がお参りできるというものであったが、後に神仏分離令によって三十三面観音は取り外されたそうだ。
 石段に戻り、飯盛山へ上り詰めると、隊士の墓がある。この地から鶴ケ城が良く見える。城から上がる煙を見て陥落したと思って集団で自刃したという悲劇の地である。皮肉なことに、この煙は誤認であったらしい。白虎隊は、年齢層でいうと十五歳〜十七歳、像に刻まれた少年の風貌が無常の思いを誘った。

      
イベントで登場した地元の蕎麦打ち名人 さざえ堂 飯盛山白虎隊の墓