島の夏 あの日の自分と すれ違う ――30年ぶりの広島〜江田島へ
屋形石〜小2まで住んでいた岬 爆心地に立ちつくす原爆ドーム


●潮引いて 牡蠣採苗棚の 陽に乾く ――いざ、江田島・切串港へ

 広島には3歳から7歳まで住んでいた。広島港の沖合い、江田島町切串(現在は江田島市)という集落から海上に突き出た岬の先端で、昔ながらの燈台守の不便な生活を送っていた。    
 2006年8月13日、久しぶりに訪れることにした。島を離れてから40年、学生の頃に懐かしさに一度訪れたことがあるが、そこから30年を経過する。
 盆休ではあったがほぼ渋滞のない山陽自動車を広島東ICで降り、宇品港へと向かう。広島市は今も路面電車が活躍する。子供の頃に載っていたような年代物もあれば、最新鋭の低床型三連結車両があったりで、見るだけで楽しい。
 宇品には県営桟橋と市営桟橋とがあるが、江田島、能美島、似島、宮島など島嶼部へは県営桟橋のフェリーターミナルから出港する。これは昔から変わらない。港に広大な駐車場があるので、車を入れた。江田島は自動車道路もあるが、今回行くところは道も狭い集落なので車の必要はなかった。
 フェリーは宇品港を出港し、似島の安芸小冨士、峠島を見ながら江田島市切串へ。ちょうど潮が引ききった時で、牡蠣の養殖筏に垂下するための牡蠣採苗棚が海面から姿を現し、真夏の陽射しを浴びていた。
切串行フェリー 県営桟橋より元宇品を望む 似島の安芸小冨士
フェリーボート出港 峠島 江田島、手前に出た岬が「屋形石」




●街並みは 変われど樹は 今もあり ――あの頃の自分がそこにいた

 
 フェリーを降りてすぐ、隣り合って建つ小学校・中学校が眼に入る。建物は往時の木造二階建てから鉄筋へと建て替わっていた。学校の横は長谷(ながたに)川が流れる。今も昔も集落の中心地である。江田島という島全体は、歩いて回れないぐらい面積も広く、中心部には海軍兵学校の訓練地となった古鷹山やクマン岳といった山が存在している。
 当時の記憶に残る、土間のある建物や牛を飼っている家は、今はない。市内部の街と何ら変わりない新しい建物にすっかり様変わりしていたが、道のつながりや坂道の風景にかすかな記憶が甦る。
 私が通っていた保育所も新しい建物になっていたが、園庭の真ん中にあったシンボルの樹木は今も存在していた。祭礼の時にワクワクしながら鳥居をくぐった大歳神社には、やはり立派な根を持つ楠の大木が今もあった。子供の頃に大きく感じたのはもちろんんこと、今見ても充分大きいものであったことを再認識した。       
 江田島は戦争が終わるまでは海軍兵学校のある島として有名であった。現在は自衛隊の技術学校になっている。切串にも自衛隊の用地があり弾薬庫となっている。       
 屋形石は、切串の集落からさらに突き出した岬の先端部で、そこに燈台と、海上保安庁の職員が三世帯(といっても我が家以外は単身者)住んでいた。他に岬に住む人はなかった。屋形石から学校までの道のりは、その半分は火薬工場の構内を通り、半分は人家のある街中であったが、子供の足ではえらく遠かった。友達と遊んでいて帰りが遅くなると、街灯も何もない真っ暗な山道を一人で帰る羽目になり、どうしても通過しなければならない火薬工場に警備のために飼われていたシェパードの咆哮が死ぬほど怖かった。       
 住まいには電気・ガス・水道もなし、郵便物や新聞は岬の付け根にある船付場のよろず屋に留め置かれる。井戸水を汲み、流木を拾い集めて風呂を焚き、畑を耕し鶏を飼う生活だった。誰も獲るものもないので砂浜には石ころより多いぐらいのアサリがあり、竹の枝を竿にした簡易な釣り道具でも魚が釣れた。       
 燈台守が不便な暮らしであったのは、全国的にもこの昭和30年代までで、次第に燈台は自動点火となって岬や孤島に住む暮らしからは解放されていくことになる。今となって一番懐かしく感じるのは、この時のロビンソンクルーソーのような自給自足生活である。力道山が没し、東京オリンピックが開かれた時代のことである。       
 
切串港より屋形石の岬を望む 牡蠣の採苗棚 二年生まで通った切串小学校
                  
坂道に子供の日々が甦る 切串保育所 長谷川
       
大歳神社 境内の楠の巨樹 幼年の私の通学路

       
今は無人となった屋形石の燈台官舎 沖の岩礁に屋形石燈台がある 屋形石燈台・太陽光発電を備えている

●球場の 太鼓が響く 被爆跡 ――八月に広島で平和について考えた

 宇品に戻り、路面電車で原爆ドームへ向かった。子供の頃は、月に一度広島へ出て、電車で八丁堀の百貨店で買い物をする時に漫画や本を買うのが楽しみであった。
 原爆ドームは、広島市民球場の向い側にあり、都市の賑わいの中でそこだけが切り取られたように廃墟をさらしている。安寧な消費生活と、無残な決壊の世界が隣り合わせであることを象徴するかのようだった。       
 観光客は外国の人も多かった。アジア人はどう見るだろうか、アングロサクソンはどう感じるだろうか、と思えてならない。髪を染めた若者たちも、押し黙って被爆の痕跡となった原爆ドームを覗き込んでいた。       
 原爆ドームは、爆心地に近く爆風が真上からであったために、壁は残されドーム型の屋根が抜け落ちた建物である。市内の一番の繁華街とも隣接する。改めて考えるのは、原爆を落とした地点は軍事施設というよりも、市民生活の中心地であったという事実である。
 敗戦間近であった日本国に、非戦闘員としての市民を大量殺戮し、子孫の代まで後遺症を残すような兵器を投下する必要がどこにあったのか。「ちちをかえせ…」で始まる峠三吉の原爆詩集の「序」は、こう結ばれている。       
 「にんげんの にんげんのよのあるかぎり くずれぬへいわを へいわをかえせ」
 

      
薄暮の街を路面電車が走る 電車通りより見る原爆ドーム 間近で見上げる原爆ドーム
原爆の子の像 恒久平和を希求する折鶴 誰もが一度は見てほしい平和記念資料館 元安川と牡蠣舟