運命を 切り拓く人あり その碑に捧ぐ ――神奈川〜横浜 追悼の旅
横浜中華街関帝廟 横浜港と海鳥


●やり切れぬ哀惜の思いを抱え 猛暑の記念碑に水割を置く

 記録的な猛暑の一日となった2006年7月29日、横浜に行った。かつての外国人居留地であった横浜中華街の関帝廟通りに、めざす碑はあった。 数奇な運命をたどったジョセフ彦の旧居跡にして、日本初の新聞発行の地を記念している。
 広場もない舗道の植え込みに沿ったその記念碑には、「日本新聞発祥之地」と刻まれ、ジョセフ彦の青銅のレリーフが嵌め込まれていた。
 小川正昭氏の写真の載った月刊誌と氏のかかわりの深かった新聞を捧げ、缶入りの水割を置いた。小川氏の訃報を聞いてからというもの、その哀惜の思いのやり場に困っていた。やっとこれで自分なりの追悼になったのかな、と思うことにした。  
   
 小川氏は元新聞記者としてのジャーナリストの魂を晩年まで持っておられた。私が現職に就くにあたっては最も世話になった方である。一緒に出張するる機会もしばしばあったが、折りにふれ、小川氏の炯眼ぶり、教養の深さ、そして圧倒的な筆力に敬服していた。
 小川氏が現役を退かれてからのこと、ある日事務所に来るなり「長島君、横浜のジョセフ彦の記念碑まで行って来たよ」と嬉しそうに語られた。念願であったようだ。その時は半分聞き流したのだが、小川氏はその時の横浜行を「ジョセフ彦点描」と題する一文にまとめられ、エッセイ集の同人誌と私が仕事して編集にかかわっている月刊誌に寄稿をされた。    
 「ジョセフ彦点描」を読みながら、日本初の新聞発行人であったジョセフ彦の数奇な運命を知ることになった。骨の髄までジャーナリストであった小川氏がジョセフ彦を追いかけるのは当然のことと思えた。    
 そして私は小川氏の域には到底達することはないだろうけれども、小川氏という先達を得てジョセフ彦をあと追いし、今、酷暑の横浜に立ち尽くしている。
     
横浜中華街西入口にあたる延平門 関帝廟通り・地久門 関帝廟 横浜媽祖廟
      
日本新聞発祥之地碑 ジョセフ彦のレリーフと小川氏のツーショット 新聞発祥の地にわが発行物を捧ぐ


●望郷の 思いはかくや ジョセフ彦

 ジョセフ彦こと浜田彦太郎は1837年、播州播磨町に生まれた。母親の再婚相手が船乗りであったため、義父の船に水夫として乗り込むことになる。彦太郎13歳の年に 江戸からの帰りに遠州灘沖で遭難、50日余りを太平洋上を漂流する。救助されたのは米国船だった。
 船に乗り合わせた日本人の名には「蔵」のつく者が多く、彦太郎は米国の人から「ヒコゾウ」と呼ばれるので、自らを彦蔵と名乗るようになる。サンフランシスコで近代教育を受け、キリスト教に帰依し洗練名ジョセフを得て、ジョセフ彦と改名をする。1858年には帰化し日本人初の米国民となった。
 ジョセフ彦の望郷の念はいかばかりであったろうかと偲ばれる。問題となるのは、当時の日本は鎖国からようやく開国していく時代であったことと、ジョセフ彦がキリスト教徒となったことであった。香港までやって来たのに、目の前の日本への帰国を果たせず涙を呑んで米国に戻ったこともあった。       
 結局、日本人として帰還することを諦めたジョセフ彦は、米国側通訳として日本の土を踏み、外国人として横浜居留地に住むことになった。米国にして異邦人であった彼は、日本においてもまた異邦人であった。
 ジョセフ彦は明治維新前に帰国して日米修好条約交渉で活躍した。日本では木戸孝允や伊藤博文とも会って米国で得た知識を伝える一方、米国ではリンカーン大統領とも会って握手をしている。米国大統領と握手した最初の日本人であった。現在でこそわが国の歴代総理は欠かさず米国大統領と会って握手をするのだが、漂流民であったジョセフ彦がその第1号である。       
 しかし治安の悪化から米国政府側の身分で日本に滞在することに不安を感じたジョセフ彦は、官職を辞して貿易の商売を起業する。 横浜の居留地で彼は、相場など経済動向を知り得る手段がないことに着目、米国では当たり前の情報伝達手段となっていた新聞の発行をおこなうことにした。かくして1864年、わが国初の近代新聞「海外新聞」が手書きから始まり木版印刷で増刷されていった。ジョセフ彦は「新聞の父」となった。       
 ジョセフ彦は1897年東京で没し、青山の外人墓地に「浄世夫彦之墓」が建てられた。海で育った少年がその後の数奇な運命をたどり、運命に翻弄されながらも切り拓いていく逞しさが、碑を仰ぐ眼に眩しい。(ジョセフ彦の生涯はNHK「その時歴史は動いた」でも紹介された)       
 小川正昭氏もまた、戦争を体験し混乱と復興の時代を自ら切り拓いて生き抜いて来られた。今回の旅で撮ったこの両者のツーショットは、私の今後の人生における宝となることであろう。
                      
水の守護神の噴水 係留されている氷川丸 氷川丸エンジンルーム 氷川丸船首
船橋(ブリッジ) 煙突と救命ボート 浮き輪

●航海の役割 終えた船に立ち ビール買う

 朝陽門より中華街を出て横浜港に向かった。黒塗りの巨体を接岸させている氷川丸が目に入ったので入館してみた。
 豪華客船として外洋航路で活躍した船舶を桟橋に係留して展示館に転用している施設である。巨大な船は見るだけでも迫力があり、港の風景が格好のロケーションとなって絵になる。
 私は燈台守の息子として生まれたので、船や海には事のほか懐かしさがあり落ち着きを感じることができる。
 氷川丸から「みなとみらい」の特徴的な建物が目に留まる。こちらは生まれ育った環境にはない形状。山下公園を通り抜け、赤煉瓦倉庫に立寄った。
 それにしても、首都圏だけあってさすがに人が多い。地方の港湾も訪れる機会がいくつかあったが、港に人通りがあふれることなど、花火大会でもない限りあり得ない。首都圏のの巨大さに改めて圧倒される思いがした。

      
海沿いに広がる山下公園 改装された赤煉瓦倉庫 絵画のような赤煉瓦倉庫遠景