●“歌枕 訪ねて奥の 細道へ” ――芭蕉とともに歩む宮城県の旅
松島の海を翔ぶカモメ 芭蕉がたどりついた封人の家


●“桜より 松は二木を 三月越し”(芭蕉)――岩沼、多賀城、塩竈で奥の細道の足跡をたどる

 2007年5月2日〜5日、念願の東北・宮城県と岩手県の旅をおこなった。「松島の月まず心にかかりて」と記されているように、宮城県は松尾芭蕉が奥の細道の出立の重要な動機となった場所。私もまた今回、奥の細道の足跡を可能な限りたどっていくことをテーマとした。
 1日午後に自宅を車で出発、名神から北陸道をひたすら走った。計算通り渋滞もなくその日のうちに福島県内の東北道に到達、吾妻PAにて車中泊した。白石ICを出て、午前7時に岩沼市内の竹駒神社に着いた。
 芭蕉が奥の細道の旅で「桜より 松は二木を 三月越し」と詠んだ武隈の松を探す。神社に隣接しているはずだったが、神社からの案内表示が見つからず、結果的には分かり易い表通りにあったにもかかわらず探すのに手間取った。武隈の松は根本から二木に分かれた松で、和歌の題材に取り上げられていた(歌枕)が、先述の芭蕉の句は桜の盛衰と松の不変を取り合わせたものと解説されている。
 岩沼ICから仙台東部有料道路を経て仙台港北ICを出て多賀城市の沖の石・末の松山に向かった。いずれも奥の細道で芭蕉が訪れた場所である。沖の石は、沼地の中にあった石の風景のことだが、現在は周囲のほとんどが住宅地となり、沖の石とそれを取り囲む小さな池だけが残っている。
 末の松山は、沖の石のすぐ近く。墓石の並ぶ丘陵地に天を覆うように松が伸びる。現在は墓地として整備されているが、芭蕉が目にしたのは松の根の間に墓石が並ぶような侘しい風景で、世の無常を感じたことを記述している。
 多賀城駅をはさんで、おもわくの橋に向かう。下を流れるのは野田の玉川。いずれも芭蕉も立ち寄った場所、現在は史跡として整備されている。

日本三稲荷の一つ、竹駒神社 武隈の松と史跡公園 根本より二木に分かれる 「桜より…」の芭蕉句碑
歌枕の地・沖の石 歌枕の地・末の松山 おもわくの橋 野田の玉川

●“松島は扶桑第一の好風にして、凡(およそ)洞庭・西湖に恥じず”(芭蕉)――雨の松島を遊覧する

 多賀城に至る頃にはいよいよ天候が悪くなり、雨が本降りになってきた。芭蕉が「難旅の労を忘れて泪も落ちるばかり也」と感動した壷の碑(多賀城碑)が現存しているので立ち寄った。周囲は多賀城跡の小さな丘陵地にあり、木造の覆堂に入って鎮座している。762年の建立で日本三古碑の一つ。
 多賀城碑から塩竈神社に向かった。一直線の石段が二〇二段続く表坂(男坂)が正面だが、駐車場は裏手にある。東北地方はゴールデンウィークでまだ桜が咲く。本殿の前に、芭蕉が心打たれたという文治灯篭がある。奥州藤原氏第三代の秀衡の三男、和泉三郎忠衡が奉納した鉄灯篭である。文治灯篭の背後の境内には天然記念物の塩竈桜が咲いていた。
 塩竈神社から松島へは遠くないが、このあたりで道路が混雑し始めた。松島の一番手前の無料駐車場に入れたが、ここから遊覧船の乗り場まで海岸沿いに行くことができたので、中心地まで渋滞を進むよりも結果的には良かった。遊覧船はいくつかコースがあるが、概ね五〇分程度。甲板でカモメに「えびせん」を与えるのが一つの名物となっていいた。カモメのほうもよく餌付けされていると見えて、遊覧船が出発すると船尾に群がって近寄ってくる。
 芭蕉は憧れの地であったがゆえにか、松島では一句もつくらず、曽良の「松島や 鶴に身を借れ ほととぎす」を記すにとどめている。しかし、紀行文の部分は、漢文調を駆使し、「二重に重なり、三重に畳みて…」「枝葉汐風に吹たはめて…」と力強く描写、あげくに「その景よう然として美人の顔(かんばせ)を粧(よそお)ふ」と最大級の賛辞を与えている。
 今回自分の目で見て改めて感じたのは、地質が凝灰岩や礫岩、砂岩などいずれも侵食を受けやすい性質を持って層であることだった。高知の「見残し・竜串」や南紀の「獅子岩」の岩相とよく似ている。海の色は浅く明るい水色で、後日見た岩手・陸中海岸の深い透明感とは対照的だった。
      
壷の碑(多賀城碑) 文治灯篭(塩竈神社) 202段の表坂石段(塩竈神社) 五大堂(松島)
      
松島の海岸線 カモメの接近 鐘島(空洞に響く音が鐘のように鳴る) 仁王島とカモメ

●時代を刻む“みやぎの明治村”――登米市の家並みを歩く

 松島から石巻方面へ向かい、北上川で北へ向かったところに登米の街がある。芭蕉一宿の地であり、歴史的建造物が現存することから「東北の明治村」とも呼ばれる。以前は登米(とめ)郡登米(とよま)町という難読地名だったが、現在は合併して登米市になり「とめ」と読むようだ。
 警察資料館裏の駐車場に停め、小さな街を歩いて廻る。警察資料館は明治時代の木造洋館の旧警察署の建物で、バルコニーが付いていることが特徴。かつて舟運で賑わいを見せた繁華街を監視するためにバルコニーが設置されてと言われている。今は監視するまでもなく人影が珍しいぐらいに静かな街になっている。
 登米大橋近くの北上川の堤防の上に、川東碧梧堂筆による芭蕉一宿の地の碑がある。堤防に泊まったわけではなく、河川改修の前は川幅も狭くこの位置は街の一部であったということだ。教育資料館は、木造の校舎を保存したもの。通りがかりの人が親切に道を教えてくれたが、その人曰く、以前は登米の家屋の屋根は玄昌石という黒い石の板(スレート)で葺いていたのだそうだ。この石は地元で産出するが、次第にスレート屋根も姿を消している。
 計画よりも順調に進んだので、登米の後は翌日の予定であった中尊寺へとコースを変更した。中尊寺は岩手県に入るので、以下は岩手県のページへと続く。
 中尊寺から仙台市内へ戻り、宿泊。素泊まりの予約で、夕食は市街へ出て牛たん屋で堪能した。付け合せて出てきた、赤唐辛子を味噌(?)に漬けたものが珍しい美味しさで、あとで土産を探したが牛たん加工品はあるものの唐辛子の味噌漬けらしきものは見つけられず。やむなく「青唐辛子入りの肉味噌」を買うも、これはこれで美味しいが全く別物であった。
 
      
芭蕉一宿の地の碑と北上川 バルコニーのついた洋館・警察資料館 登米市街の酒屋さん 校舎を保存・教育資料館

●奥の細道難所、尿前(しとまえ)の関、鳴子峡、封人の家から山刀伐峠へ向かう

 仙台を朝出発、東北道を古川ICで降り、岩出山バイパスを通り旧有備館へ立寄る。現存する最古の藩校と言われる。周囲はのんびりとした町で好感を持つ。芭蕉が宿泊したのは岩出山小学校の近く。
 旧有備館から一路西へ向い、鳴子温泉郷に至る。川沿いに小さな駅があり、狭い坂道に温泉宿や土産物屋がひしめく、昔ながらの温泉街。この鳴子温泉以外に、東鳴子温泉、鬼首温泉などが周囲にあり、総称して鳴子温泉郷と呼ぶ。 
 温泉からさらに西へ向かい、鳴子峡に差し掛かる入口に、尿前(しとまえ)の関跡がある。関跡の前には芭蕉の句碑が建っているのだが、それは「蚤虱(のみしらみ) 馬の尿(しと)する 枕元」という句であるので、地元の人にはいささか気の毒にもなった。ここは奥の細道全行程中の前段最大の難所であり、関所では怪しまれ、ようやくたどり着いた一宿の馬小屋で蚤や虱に苦しんだという、愚痴をこぼすような作句となっている。
 鳴子峡は、車道は高台を走るが谷底に遊歩道が通る。堺田には、芭蕉がたどり着いた封人の家が保存されていた。封人とは、地域の警護に当たる役職のこと。今回は、ここから山形との県境を越え、山刀伐峠までを折り返した。その後、古川から遠野市へ向かうのだが、以下は岩手県のページで記す。
 芭蕉が苦渋を舐めた難所ではあるが、嘘のように現在の快適な道路と、晴天の道のりであった。
      
           
岩出山・旧有備館 尿前の関跡 鳴子峡 堺田・封人の家