ものづくり 一万年余の 濠の外 ――大阪市平野区、歴史を超えた街
現代の大阪市内にもこんな街なみが残っている 幽霊博物館〜大念仏寺


●冷涼な高原の谷頭で石器をつくる――旧石器時代の平野(ひらの)が思い浮かぶ

 とうとう30年以上を大阪で住んだことになる。中でも興味深く、公私とも印象深い地となった平野区を大阪府のページで取り上げることにした。
 2005〜06年の二年間、平野が仕事上の担当地域となった。それまで平野区は特別縁が深いわけではなかったが、せっかく担当するので地域のことを知ろうと、平野区役所企画室が主催する平野区誌発行記念歴史講座に通った。
 そもそもなぜこの講座が成り立つかというと、一万年以上前の旧石器から近世までの各時代ごとの遺跡、遺構がすべてあるのは大阪市内では平野だけ。現在の中央区周辺は大部分海の底であった。
 講座で知ったのは、旧石器時代の平野は現在よりも海岸線が下がっており、高原状の台地であったこと。気候は冷涼で乾燥した草原状で、象などの大型哺乳類が闊歩していた(長吉長原で象の化石が出ている)。
 旧石器時代の人間は、台地の端で川と川が出合う「谷頭」に住む。平野川の川筋に沿った長原や六反あたりに旧石器人が居住していた。長吉では1m下から出る石器が、一キロ余しか離れていない六反では6m下から出る。現在は全くフラットに見えるが当時は5mの高低差があったという証しである。ちなみに、一万年を超す地層の年代特定がなぜわかるのか疑問だったが、古姶良火山(現在の桜島火山のある桜島湾をつくった巨大な爆発火山だったらしい)が二回にわたり大噴火し、その火山灰が二筋の層をつくるのが年代特定の分かりやすい基準となるそうだ。
 旧石器の出る場所は、高槻と、平野周辺、八尾周辺、二上山と、そう多くない。いずれも二上山のサヌカイトを採って加工しているが、面白い事に、半製品の出具合から、二上山で採った石を八尾、平野と移動しながら少しずつ加工しながら持ち帰っているらしい。物々交換の取引という概念がない時代のことである。
 
 
象の化石が出土した長原周辺 廃線となった阪和貨物線 瓜破台地を削った跡・瓜破霊園

    
長吉長原古墳群の碑 長原神社の鳥居 長原神社境内
●縄文海進、弥生時代の集落も近くにあった

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 やがて冷涼だった旧石器時代が温暖化して縄文時代に移行し、海水面が現在より3〜5m上がった(縄文海進)。しかし、縄文時代の集落は海岸台地の端であったため、結局は旧石器時代と近い場所に集落が存在する。今の平野区まで海岸線に入り込み、長吉や瓜破は海に面する台地であった。
 弥生時代になると、海水面が下がり現在の海岸線に近くなる。弥生時代の集落は低湿地に隣接した台地の端、すなわち海岸線が後退した後の平野で、結局は旧石器から縄文・弥生まで近い場所に人が住んでいることになる。
 現在霊園のある瓜破は、かつての台地を削って馴らした場所で、本来はもっと遺跡が出ているはずの土地であっただろうと講座で語られた。中世の土木工事によって遺跡もろとろ失ったのである。なお、奈良盆地から堺の海海岸に注ぐ現在の大和川は、放水路として掘られた人口の河川であることも、講座で初めて知った。
 弥生時代になると、海水面が下がり現在の海岸線に近くなる。弥生時代の集落は低湿地に隣接した台地の端、すなわち海岸線が後退した後の平野で、結局は旧石器から縄文・弥生まで近い場所に人が住んでいることになる。加美では工業団地造成の際に古墳も発掘され調査された。
      
六反にあるクラフトパーク 6m下より旧石器が出土した 平野地域のものづくりを展示する館内
             
平野郷の環濠の一部(杭全神社裏) 杭全神社の楠 松山池

●堺と並ぶ中世の自由都市、平野郷

 その後も平野の地は各時代ごとに歴史の舞台に登場する。奈良時代、土木工事の技術に長けた僧・行基は、権力との対立をたくみに立ち回って回避しながら、地域住民のための防災工事や、納税に向う途上で行き倒れになった人の救護所を設けて、民衆に布教し支持者を広げていった。
 その場所のひとつが「呉坂」で、現在の喜連(きれ)あたりだと考えられている。ここに東西にほぼ一直線で通る道があった。堺や泉南の土地から都まで税を徴収するために開かれた国策道路だそうだ。
 中世には現在のJR平野駅から南側の一画が濠で囲まれた環濠集落となり、平野郷として発展した。今となっては濠の痕跡は、杭全(くまた)神社の裏手に少しと、一部の公園に残されているだけで、街中からは姿がわかなくなっている。しかし地元の人に聞くと「平野郷の内側が外側か」は即座に答えが返ってくるから、われわれに見えない濠が地元出身者にはちゃんと存在しているようだ。
 平野郷は堺と並ぶ自由都市として発達し、明治以降大阪市に編入される時ですら、市内でほとんどなかった上水道を自前で完備されていたという。大阪市への編入に反対論も多かったと想像できる。
 現在の平野は、公営住宅の割合が大阪で一番という地域となった。大阪市内では珍しく住宅と工場が隣接する職住近接地域である。
 「平野町ぐるみ博物館」が運動化されていて、老舗の新聞販売店は「新聞博物館」、郵便局も「郵便博物館」として、スペースの一角に展示コーナーを設けている。街をひと回りしていくとさまざまなものが見られるという発想だ。
 といっても常設でないものもあり、写真に撮った幽霊博物館は年に1回だけ、大念仏寺所蔵の幽霊の掛け軸の公開日のみ開設される博物館である。真夏の炎天下、堂に入ると薄暗い壁に青みを帯びた墨描きの「番町皿屋敷お菊亡霊図」他十二点の幽霊画掛軸があった。
      
融通念仏宗総本山・大念仏寺 大念仏寺で幽霊博物館の公開 提灯屋さんも健在
路面電車のホーム跡が遊歩道の公園に 濠の出入口の一つ西脇口にある地蔵尊 今は消防用に残されている井戸