30年ぶりに訪れた街は明るい展望にあふれていた――香川県丸亀市
●母方の実家があった与島の変貌

今回の旅は自家用軽自動車にて、山陽自動車道を経由して瀬戸大橋へ。視界は良好、海の上を走行する気持ち爽快。与島パーキングに立寄る。
 与島は私の母の出身地であり、子供の頃からなじんでいた島である。むろん当時は橋もなく、坂出や児島から連絡線「千当丸」で約一時間をかけて渡っていた。波の穏やかな時はいいが、時化ている時は波頭がデッキに襲い掛かってくるようで生きた心地もなかった事を思い出す。
 この島は花崗岩の切り出しが産業で、島の船は漁船ではなく石材運搬船がほとんど、専業の漁民は一人もいないところだ。母の旧姓は「那須」と言い、那須石材という石切り場の持ち主であったのだが、現在は石材の切り出しはおこなわれていない。まるで島を切り売りしてような石切り場の跡が静かに歴史を語っている。
 与島パーキングがあるのはみかん畑や雑木林のあった山を大胆に切り開いた場所。フィッシャーマンズワーフは塩田や中学校の跡地である。橋が出来たら住みやすくなる、と言われたが、実際はほとんどの家が坂出市内に移住し、墓参りのために島に来る生活になったらしい。巨大は橋脚と廃屋の目立つ島の集落が対照的だ。
 なお、隣接する鍋島灯台は、燈台守だった父の元・赴任地でこの島が夫婦の出会いの舞台であったということだ。 

 
与島に隣接する鍋島灯台(左) 瀬戸大橋〜与島より坂出方面を望む(中) 与島パーキング(右)


       

 
● 高さも日本一、丸亀城の石垣は日本一美しい

 瀬戸大橋を番ノ洲へ渡り、出口を降り右折して丸亀市に向かう。道はすっかり変わっているが、どこから見ても丸亀城が見えるので方向を見失うことがない。丸亀城大手門近くに無料駐車場があったので安心して駐車。通町商店街入口角の店で念願のさぬきうどんを味わった。何十年ぶりの味だったが、味覚というものは忘れることがないようだ。「この味」だと確信がある。さぬきうどんは、麺の存在感が圧倒的に優位だ。出しはあえてこだわりがないほど形式が自由でありながら、讃岐のアイデンティティが麺の食感、味に込められている。
 小学校三年生から中学校二年生まで、私は丸亀市に暮らした。出身小学校は城西小学校、主たる遊び場は丸亀城であった。その丸亀城へ、大手門より入り、見返り坂を登る。さきの台風の影響か、大木が根から横倒しになっているのが無残。三の丸・二の丸を経て標高66メートル地点の天守閣へ。石垣の高さは日本一、扇の勾配と呼ばれる曲線を描く石垣積みのテクノロジーには感嘆する他ない。私見ながら、石垣の美しさも日本一と思っている。木造天守閣は日本一小さいが端正な姿、何より本丸からの眺めは四方に明るい展望が開ける。
 
丸亀城天守閣(左) 石垣の美(丸亀城見返り坂より)(中) 丸亀城天守より塩飽諸島を望む(右)

       


●人生のいしずえ

 城西小学校には三年生の新学期から転入した。六年生から中学校一年生にかけて、不登校気味の苦しい時期を過ごし、親にも心配をかけた。中学校二年生の時は、たまたま気の合う級友に恵まれ、学校が楽しかった。ところが三年生に進級する時に山口県徳山市への転校を余儀なくされた。この時に体験した校内の演劇のプロデュースのことを題材に中学校三年生の時に作文に書き、入賞したことが後の人生の自信になった。一年一年、陰と陽を繰り返す時代であった。
 丸亀城本丸から南方向を見ると、自分の住んでいた街が見下ろせる。南西には名門・丸亀高校、遠くは「こんぴらさん」で親しまれる金刀比羅宮のある象頭山が見える。平野と頭の丸い山を見ると讃岐に来た実感が湧く。
 城を降りて車に戻り、市内の懐かしい箇所に寄り道した後、善通寺から高松道に乗り、鳴門・淡路島を経由して帰阪した。日帰り四国旅行であった。

丸亀市城南町〜小3から中2まで住んでいた街(左)  丸亀城本丸より飯野山を見る(中)  丸亀城本丸より見る象頭山(こんぴらさん)